10月22日

クルシージョ(カンテ講習会)二日目。
受講者が一人づつ唄わさせられているのを人ごとのように見ていたら、ディエゴが急に私にふってきた。
何故故に?
俺はカンテを唄ったことはないし、習っているわけでもないし、スペイン語もろくに話せんし、カラオケも数年行ってないぞ。
しかし、ここで私が頑なに拒むと、座の空気がしらけてしまうのは一目瞭然である。
そして企画者に属する立場上、それは避けねばならない。
えーい、ままよ。どうなっても知らないよディエゴ。
と言う訳で、ヤケクソで唄う。
私の行動に賞賛?いやお情け?の拍手。

ディエゴは言っている。
「ソレアという節回しはあるかもしれないが、リズムはお前のものなんだ。」
そして堀越さんは「元気に大きな声で唄いましょう。」と。
結局、本質はこういった所に横たわっているのではないのだろうか。
クルシージョに参加してみて、本家本元のディエゴの精神の自由さに比べ、
日本フラメンコ界の形式の束縛による不自由さを改めて感じた。

フラメンコに限らず、外国のものを日本人がする時、仏を作って魂を入れずみたいなイミテーションばかりのような気がする。目指す地平線に、本物が認めるだとか、
日本人離れしたとかあるのかもしれないが、とどのつまりはイミテーションで、他に本物があるわけだ。
私はイミテーションにお金を払うくらいなら本物に払う。
日本人離れしたところで、日本人なんだし、日本人としての、又その人自身の個性があるはずだ。
あえて、自ら卑下することもあるまい。
イミテーションで終わってるから、自らヒエラルキーを作らざるを得ないのだ。

「何故、日本人がフラメンコをするのか。」と自ら問いただすことは必要なことだと思う。