Punk Rock is our traditional music!?

例えば、沖縄音楽のCDの解説などを見ると、「これはウチナンチュしか弾けない、わからない。」などのことが書かれている。心優しき沖縄好きヤマトンチュは、沖縄の過去の歴史などと関連づけ「なるほど、もっともなことです。」としおらしく頭をたれる。そして妙に屈折した感情と共に音楽を聞くこととなる。ただの音楽が民族音楽に変わる瞬間だ。
フラメンコにおいてはどうだ。ヒターノであるかないかに全ての関心がいく。
そして非ヒターノは他の者に比べ幾ばくかでもヒターノに近い、血の問題ではなく、そのヒターノの形式にどれだけ近いか、ヒターノの感覚がわかるか(いったところで錯覚だ。)のところに自らのアイデンティティーを置き、その1ミリか2ミリかの違いで優劣を競っているように見える。
それはフラメンコを特別なものに昇華させ、一般への門戸を狭め、閉鎖的なものへ導く。
一般を追い出す故、貧乏になる。そしてフラメンコが特別なものであることに依存する度合いは増す増す高まり、悪循環が繰り返される。
そこでの関心は、その人の個性でなく、形式にどれだけ近いしかない。
そんなものは面白いわけがない。

また沖縄を例に出そう。
ソウルフラワーユニオンの中川敬は三線をひき、歌を歌うが、
「そんなひき方で、よく沖縄の人間の前で演奏できるな。」
のようなことを言われたそうな。
ソウルフラワーユニオンは沖縄民謡を演奏しているわけでないし、その個性故に人気もある事実が全てだ。
沖縄民謡の形式にしか価値観を見出せない石頭は尖閣諸島沖にでも沈んだほうがいい。

民族とは何か。
普段の日常では車に乗り、携帯でメールを打つ生活をしている沖縄の人間が、着物を着て三線を持った途端に違った存在になるウソ臭さ。単なる時代錯誤だろう。
文化とはそんなに閉鎖的なものか。
例えば今でこそ日本文化の代表でございと、すました顔をしている茶道にしたところで、その発生は当時最先端の南蛮文化から堺の商人たちが”いけてる”ものをセレクトしてリミックスして作り上げたものではないか。
四畳半の狭い空間で遠い異国の商品を眺めながら遥かな大海原をイメージする。
一日中部屋に引きこもって(日本の引きこもり第一号は天照大神だ)コンピュータをにらんでインターネットなどしているオタク(これは現代の魔女狩りであると思う。)と変わらないかもしれない。今と比べ、物事、情報の速度の違いが、固有の型を作ることになっている大きな要因であり、(ロックの普遍性はその逆の効果だ。)
本来、人間の交流、創作というものはもっと自由でダイナミックなはずだ。
世の中にあまたいるハーフやクオーターといった人はどこにアイデンティティーを求めればいいのでしょう。なぜ、民族的アイデンティティーは、例えば沖縄なら平和な
琉球王国の頃と暗黙の了解で共通の場所に帰結するのでしょうか。
人類の過去は所詮サルなのだから、遡るだけ遡ればいい。サルの鳴き声でも聞いてこれが私のルーツミュージックとでも思っていろ。もっとも、そういう人はサルならサルでチンパンジーかニホンザルかでこだわるのかもしれない。

民族音楽とは、かように差別的である。
最もこれは持たざるものの僻みであるのかもしれない。
そして持たざるものの一人である自分は無い知恵を絞り、自分が安心していられる場所を手に入れた。
今、グローバル化かアメリカ化か何かで、世界中どこに行っても同じ服を着て、同じものを食べ、同じ映画を見て、同じ情報を共有して、言う程違いも見られないので、自分を地球人としようと思う。
その地球人の共通の音楽は、ここ40年ぐらいで急速に世界中に飛び火したロックンロールってやつがふさわしい。中でも誰でも参加できるパンクロックが最も普遍的だ。
世界中どこへ行ってもクソったれなのに変わりないわけだし、その上でも好都合だ。
パンクは自由で形式はない。
形式で成り立つ民族音楽は優劣が生まれざるを得ない。
フラメンコは習わないと踊れない。習っても踊れない人も出てくることだろう。
パンクはその点、誰でも踊れる。その証拠に昔見た映像の中に、車椅子に乗った人がライブで激しく動きながら踊っているのを見た。車椅子に乗った人が踊れる民族音楽ってありますか?パンクは自由で、やさしいのだ。

そういうわけで、21世紀の地球人はパンクロックを自分のルーツミュージックとして今の世の中につばを吐いて歩いていくことを提案する。

その先には、あなた個人の人間がいるだけだ。

更新日2005年5月19日更新
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