がんばれ!ドラゴンズ 応援寄稿
「フィールド・オブ・ドラゴンズ」

この文章を書こうと思い立ったとき、ドラゴンズはタイガースに1・5ゲーム差に迫り、その後の直接対決で首位に返り咲くのは時間の問題と思われていた。
がしかし、いつものごとく執筆をだらだらと先送りにしているうちに、そして私はテレビも新聞もない生活を送っているため進展に気づかなかったのだが、昨日たまたま喫茶店で見た新聞から、事態は期を逃していることが分かった。であるが、せっかくなのでドラゴンズ愛に満ちた?文章を繰り広げることにする。

♪遠い夜空にこだまするー 竜の叫びを耳にしてー
で始まるドラゴンズのチームソングは12球団で一番であると思う。他の球団歌が概ね国歌のような脳天気右傾向歌詞一辺倒で退屈な中、ドラゴンズの場合は、ベクトルの方向が違うだけで本質は同じかもしれないが、どちらかというと左的革命ゲリラソングのテイストに満ちていて、血が騒ぐのだ。永遠に不滅です、で有名な長嶋茂雄の引退試合が行われ、日本中が悲しみにくれた中、あてつけるようにドラゴンズ優勝パレードで街をあげてドンチャン騒ぎをやらかし、当の引退試合にも名選手に対するリスペクトも示すことなく二軍選手で臨んだ、セクト根性豊かな名古屋をホームグランドにしているチームの面目躍如といったところなのである。

なぜ左的革命ゲリラソングのテイストなのか。

♪一番高木が塁に出て、二番谷木が送りバント、三番井上タイムリー、4番マーチンホームラン 
かように歌は選手の活躍を叫ぶことに終始する。送りバントが活躍になるかどうかは別問題だ。この歌が生まれたのは昭和49年、読売V9の翌年だ。
読売巨人軍の牙城を打ちくだすことを選手に託すこの歌は、間違いなく支配者の歌ではなく支配されるものの解放の歌だ。ゆえに左的革命ゲリラソングのテイストとなる!?
違うか?
また個人名を歌詞に登場させ連帯感、一体感を高揚、I&I、ブラザー&シスターでいこうぜ!みたいな歌はレゲエによくある。例えばボブ・マーリィーの「パンキーレゲエパーティー」ではパンクスとラスタの連帯を歌い、「メイタルズにウェイラーズ、ダムドにジャムにクラッシュだ」と展開される。
そう。だからこの歌は、そんなブラックピープルの感性に近い非常にクールでヒップな歌なのだ。
と書いたけど、あまり真剣にとらえないで下さいね。

昭和49年、坂東英二(ドラゴンズ背番号列伝14の最初を飾る、後続は竹田に今中だ。)により吹き込まれたこの歌は、以後、選手名、球場名を替えて歌い継がれることとなる。この歌を全部集めれば、それはそのままドラゴンズの歴史だ。
昔のチームソングをそのまま拝借し、球団名だけを替えたソフトバンクのそれとは格が違うのである。その辺り誤解のなきように。
ただし、開幕当初に作られるため、すぐに怪我でリタイアしたり期待外れに終わった者なども訂正されずにそのままなので、100パーセント真実を伝えているわけではない。

思い出の選手列伝

島谷というサードと稲葉というローテーションピッチャーとの交換トレードで阪急からやってきた4選手はどれも期待はずれに終わった。島谷は阪急で松永が来るまでサードのレギュラーだったし、稲葉もローテーションの一角を担っていたにも関わらず、この4選手はどれも役立たずだった。子供ながらにそのトレードはなんとも意味のなく理不尽なものであった。その4選手とは、戸田、大石、森本潔、小松健二だ。戸田、大石は投手で、主に谷間での先発や敗色が濃厚になる時に登場する。同じ役割分担をする者に土屋と早川がいた。土屋は甲子園優勝投手で華々しく入団したものの目が出ずに終わった。早川は西濃運輸出身という地元出のピッチャー、いわゆるジモピーだ。そして奇しくも背番号が土屋、早川、戸田、大石の順で16、17、18、19という、先発ローテーションを担うピッチャーの背番号であった。首脳陣に期待されていたことが伺えよう。背番号といえばクラスでの出席番号が誰の背番号と同じになるかが新学期の関心の的だった。私の場合、20番前半になるのが多いので星野仙一の20か左のエース、千切っては投げ千切っては投げのクイック投法で有名な松本行辛の21、マサカリ打法の木俣の23に当たることを望んだものであるが、往々にして控え捕手の福田の22に当たりがっかりするのである。
そういえば福田が試合に出ているところを見たことは一度もなかった。一度も試合に出たことがなくともこうして一人の人間の記憶の片隅にとどめさせた福田は、ある意味、フィールド・オブ・ドリームスな選手といえよう。小松健二は確か控え外野手だったと思う。今となっては小松辰雄の前に小松姓を持っていたという以上、印象はない。小松辰雄入団の翌々年には、これまた小松崎という小松系選手が入団した。彼の場合は88年優勝での活躍がまだまだドラゴンズファンの記憶の中に刻まれていることと思う。
森本潔は代打の切り札で、いつ出ても凡退する。ラジオの解説者もそれが歯がゆいらしく、「今日も凡打ですな。これで打率も一割台ですよ。」と嘲笑的に話すようになった。あの夏、私はラジオの前に座り、森本の打率が下がっていくことを観察し続けた。そんな行為が少年の心に後々悪影響を及ぼしたのではないかという気がしないでもない。そんな森本であるが、阪急時代はアニメ「侍ジャイアンツ」の中に登場したりしているので中々に侮れないのである。もちろんアニメの中でも凡退だ。

その翌年、中日球団は再び阪急との間で、左のエース松本と控え投手三枝の一対一トレードという愚を繰り返した。

青エンピツとあだ名される選手がいた。青山。背番号39。眼鏡をかけたひょろ長い、アンンダースローの投手は、その体形とドラゴンズのチームカラーにより、そうあだ名された。風貌といい、あだ名といい、年間一ケタの勝ち星の実力といい、子供のヒーローになる資格のない選手であったが、何故か消しゴム、鉛筆、下敷きなどのグッズが発売された。グッズに関しては現楽天の田尾監督と同じ扱いを受けていたのである。眼鏡をかけた長身の青びょうたんの下敷きや消しゴムは使っていて心の晴れるものではなかった。その使用が少年の心に後々悪影響を及ぼしたのではないかという気がしないでもない。青山はその後、大した活躍もしないまま自由契約で南海に渡り、選手生命を終えた。緑エンピツのあだ名を貰ったかどうかは分からない。全然関係ない話であるが、東京の青山という地名は、江戸時代の郡上八幡(岐阜県の真ん中にある)の殿様青山氏の屋敷がそこにあったことに由来する。

正岡という名ショートは守備の人だ。背番号51。選手生活における総ホームラン数で記憶される選手でもある。その本数は確か2、3本だ。当時持っていた選手ブックの年間成績のホームランの欄のところに、000000100000と並び、そのインパクトでは強打者のマーチンや谷沢を凌駕する。でも守備だけでレギュラーを張っていたことは評価されるべきだし、そういう選手を起用するドラゴンズというチームは、他球団の大砲ばかり集めてはずっこけているどこかの金満ガイアンツより、遥かにベースボール度の高いチームといえよう。同じ仲間に背番号52の田野倉という選手もいた。仲良く選手名鑑では隣同士ならんでいた正岡と田野倉であるが、二人合わせて帯に短しタスキに長しといったところで、結局、田野倉はロッテに飛ばされた。多分。

竹田という左投手のドラゴンズ時代は知らない。兄の古い選手名鑑でだけ知っていた竹田との出会いは切ない思い出だ。
当時のレギュラー藤波のわがままトレード拒否のとばっちりでデービスと共にクラウンライターライオンズ(福岡のみなさん、覚えてますか。)に飛ばされた竹田。なれない福岡の水にとまどう竹田は、練習が終わるといつも、今はソラリアプラザがある辺りにあった大きな角打ち屋さんで、侘びしく芋焼酎を呑むのであった。と、ここの描写はまったくの嘘っぱちである。しかし私がよく行く飲み屋のマスターKさんが若かりし頃、この角打ち屋で、酒代を条件に西鉄ライオンズ往年の名選手河野と島原を草野球のコーチにスカウトした話は本当である。話がそれた。竹田はその後、西武と阪神の間で行われた大型トレードにより、田淵、古沢との交換で真弓、若菜、竹之内、加藤とともにタイガースにいく。
ある日の巨人阪神戦。テレビで縦じまのユニフォームを着た竹田を見た。その試合、代打で登場した加藤博一が江川よりホームランを打ち、以後スターダムをのし上がっていった。そして竹田はリリーフに失敗した。そのテレビ中継以来、竹田の姿は見ていない。

昭和53年はヤクルトが初優勝をした年だ。この年、ドラゴンズは開幕早々、レギュラーが故障で戦線離脱し、控えでペナントを臨むこととなる。そんな控え選手の中で伊藤という外野手のことを覚えている。背番号は35。センターを守っていた。チャンスに強かったので、印象に残ったのだと思う。そんな私のごひいき選手は翌々年、トレードで大洋へ移籍。たしかサイクル安打を達成し、記録史に名を刻んでいると思う。

以上が選手列伝だ。屈折した愛情はわざとで、王に立ち向かった星野仙一、江夏からサヨナラホームランを打った大島、江川を粉砕し優勝のきっかけを作った上川、クロマティからフォークボールで面白いように三振をとった牛島などの話は割愛している。

そろそろ話を締めくくろう。こんなことを書いていてなんであるが、最近は昔程、野球は見ていない。結果をたまに見るぐらいのものなのである。それは何故か?単純に野球がつまらなくなった。興味をなくした。ただそれだけの問題なのかもしれない。
しかし、一つ思い当たることもある。それはドーム球場が増えてから野球がつまらなくなったということだ。
確かにドーム球場は昔の野球場に比べれば遥かにきれいで清潔だ。消毒され過ぎているくらいだ。同じような空間にショッピングモールやシネコンなどもある。共通しているのは消毒のし過ぎで、人間臭さまでもがなくなっているということだ。典型的な例として、こういった場所ではホームレスの姿を見かけない。
しかし、その人間臭さの中にこそ鑑賞の文化が横たわっている。文化がなくなり、残るは消費と擬似的な連帯感を体験する媒体としての機能のみが求められる箱になったのが今の
野球場の現状であると思う。そこで繰り広げられる野球も、そのフィルターを通して見ることになり、またその要求にあったものに変わりもする。故につまらないのだろう。その関係はシネコンとそこで上映される映画の関係に似ている。そこには何の発展性もないし、後進を育てることもしないだろう。セブンスイニングストレッチは野球観戦の文化だ。子供の時に行ったナゴヤ球場では、その際に「ドラゴンズのラッキーセブンです。」のアナウンスが入る。そうすると、所々でおっさんが立ち上がり、大きく背伸びをしたものだ。観客席の中、点々と散らばるおっさんの十字架。その光景は印象深いものだった。ジャイアンツの大きな旗を振る応援団のおっさんに「その旗が目障りや!」と野次る三塁側に座ったドラゴンズファンのおっさん。「だったらあなた、あっちに行きなさい。」と指で一塁側を指し示す応援団のおっさん。掛け合い漫才のようなやりとりに他の観客が笑った。双眼鏡を貸したお礼にたこ焼きをくれたお兄さん。ドラゴンズの勝利を確信し途中で帰ろうとする私に「簡単に試合は終わらないよ。」と不安がらせるヤクルトファンのおっさん。見知らぬ大人とのコミュニケーションがそこではたくさんある。そういった諸々を含めて野球は存在すると思う。
そんなナゴヤ球場の空気を同じく吸ったであろう者にイチローがいる。かって彼は言った。「子供の頃、親父に連れられていったナゴヤ球場は球場の外に屋台が連なり祭りのようで楽しかった。そんなことを思い出すから芝生の地方球場が好きだ。」と。ナゴヤ球場がイチローという名選手を育てるのに一役買っているのは間違いないはずだ。今のドーム球場が未来の名選手を作るかどうか。

私のフィールド・オブ・ドラゴンズはナゴヤ球場にあった。

2005年9月23日更新
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