SHOUCHU & MUSIC

「コーヒー&シガレッツ」という映画を見た。
その映画がどんな気分の映画かというと、映画館で座って見ていたそのエンドロール、イギーポップの「ルイルイ」をバックに出演者など流れていく中、その最後の方に、「LONG LIVE JOE STRUMMER!」の文字を発見し、思わず「いいぞ!」と小さく拳をあげてしまった。もちろんそれは、ジム・ジャームッシュとジョー・ストラマーの友情と、その両者が私のヒーローであることと、イギーポップの歌声の化学反応の結果なのだが、つまり何が言いたいかというと、それを見つけた時、私はすごく幸福であったということだ。そしてこの映画の気分というのは、そんな日常の些細な幸福感と言えると思う。
この映画は10分くらいのショートムービーのオムニバスで、その映画のエピソードの一つとして、私のこの体験も付け加えたいと言い換えてもいいかもしれない。もっともその時、私はコーヒーも煙草も吸っていなかったけれど。

この映画について私が本当に書きたいのはそれだけで、ここからはいつもの如く斜に構えた見方をする。この映画の公開時、全国に数多あるカフェはどうもそれに便乗したきらい
がある。と言っても綿密にアプローチしたわけではなく、福岡のある名の知れたカフェがそうであったから、どこも同じようなもんだろうという憶測の域をでないことはあらかじめ断っておく。レンタルビデオのミニシアターコーナーの横綱、ジム・ジャームッシュが監督で、コーヒーに煙草で舞台が喫茶店ともなれば、おしゃれが売り物のカフェとしてはこれに飛びつかなくて何に飛びつくという感じで、その気持ちは分からなくはない。
でも、「本当にお前ら映画見てんの?」と言いたい。何故ならこの映画の主役はあくまで登場人物で、舞台となる場所にオシャレなカフェなんぞ一軒も出てこない。どれもドトールやスタバやファミレスみたいなところか、観葉植物とインベーダーゲームとカレーライスと週刊大衆とゴルフ雑誌と風俗記事の充実しているスポーツ新聞で構成されるオヤジ喫茶、パーラーとも呼ばれる、ばかりである。そう登場人物達は、その場所が好きでそこに行ってるのではなく、たまたまそこにいるという設定になっている。
カフェがそこに自らを重ねるのはお門違いなのである。
エピソードに1つとして店のオーナーと客の対話がないことでも察せられよう。

余談だが、私は小洒落たミニシアターは大嫌いである。ここには映画への愛はみじんも感じられない。かかってる映画もスタイリッシュな映像と「FUCK」を連発するだけのセリフが特徴の人間なぞ微塵も描かれてない映画ばかりである。映画への愛とモノホンの映画を上映する場所は東映のプログラムピクチャーのかかる観客は労働者のおっさんしかいない小便映画館と、アカシ大先生のリールアウトぐらいなのではないか。

思うに、その店のオーナーに、ことさら主張しなくとも美学なり思想がなければ、そこに文化が生まれることはない。文化とは、それに賛同して集う客と店主との思想の、そんな大げさなものでなく簡単に趣味嗜好と言ってもいいけれど、共有によって生まれる。
日本のカフェ、飲食店全般といってもいい、の底の浅ささは、外見のみしかないことにつきる。客として求めるのは若い女性のみ。情報誌やテレビに売り込んで、行列のできる店の出来上がりだ。惚け面して待ってる奴らは炊き出しを待つホームレスに劣る。何故ならあの人達にとって食は切実だから。

話は変わるが、フェミニストのババアは女のみが優遇されているシステムに、何故異を唱えないのだろう。どちらかというとああいう女性のみのサービスが発せられる根底の意図にこそ、女性蔑視が横たわっている気がするのだが、優遇は優遇でいいということなのか。現金なものですね。でも一週間に一回、男のみ映画が1000円で見れる日があったのなら、黙ってはいないのだろう。例えば、その映画サービスデーで見る映画のスクリーンの一番の始まりに映画配給会社の重役会議があり、そこでおじさん達による、こうすれば女性客が見込めるという検討のもとのキャスティング、脚本改ざん、編集があるということに思いを馳せてみたら、現状は何も変わってないことに気づくのではないか。また、その結果とはブラッド・ピッド主演のアクション映画であり、かって逆の発想で制作されたリー・マービン、アーネスト・ボーグナイン共演の傑作「北国の帝王」のような映画
が生まれる余地はもうないということだ。最近の映画が往々にして面白くない原因もこういうところにあると思う。
さてここで問題。映画館の中で、車いすに乗った人を何処で見つけることが出来るでしょう?
答え、スクリーンの中。そこに横たわるもの、それはエセヒューマニズム。
話が大きく逸脱。というわけで、
「人としてこうあるのが理想だということに男も女もない。」が私のスタンスで、「俺も1000円で映画が見たい。」と主張して、話題をもとに戻す。

お店を介した文化を考える時、コーヒーよりアルコールが有効だと思える。酒はカクテルより焼酎がいい。そして何より音楽が必要である。これは私の体験に裏打ちされたものだ。他にいいようがない。そして、気がつくと店主を含め開店から閉店までL字型カウンターに座るのが全員オーバー30の男ばかりだった、みたいな場所が一番だ。
言い換えるならば、この国が「若さ」のみに価値を置き続ける限りは、かってあった「文化」を取り戻すことはできず、ただひたすら「消費」と「搾取」のみが存在することになるだろう。
毎夜、私はいい音楽が流れる中、焼酎を飲み、仲間と時を過ごす。その何気ない日常の、ある一瞬一瞬は、「コーヒー&シガレッツ」のエピソードのように美しく輝きもする。そう私がこの映画を見て夢想したのは、焼酎と音楽をキーワードに、私が渡り歩くお店が一つに連なった一本のオムニバス映画なのだ。

サライ、ハイサイ、月、カーマイン、南来食堂、テーブルグレード。
いつもありがとう。
今日はポーグスのブートを持って遊びに行きます。

更新日2006年6月19日更新
雑兵は不定期更新です。
ご感想、ご意見などありましたら、
aficionrecord@estate.ocn.ne.jpまでお願いします。