幕末 (後)

ひと月近く空いてしまい、続きもへったくれもない感じであるが、中途半端でいるのも気持ち悪いので、「幕末」を強引に終わらせることにする。
「獅子の時代」の話であった。
ここで言いたかったこととして、ドラマの初頭、パリ万博の夜、誰もいないパビリオンの薩摩藩のコーナーに飾られた鎧を菅原文太演じる平沼せんじが、虚無的にたたっ切るのであるが、「仁義なき戦い」ラストシーン、葬式に訪れた広能昌三が位牌に向かって拳銃を撃ち、「山守さん、弾はまだ残っとるがよ。」と言ったところとダブって見えるのである。だからといってそれだけの話である。
また音楽は、これまでの大河ドラマがクラッシック一辺倒だった中、宇崎竜童&ダウンタウンヴギウギバンドが担当し、ロックが前面に押し出されていたものにトラック野郎シリーズにおける、菅原文太と宇崎竜童のコラボレーションを思い出したりした。まあ、つまり、制作スタッフの中にたくさんの菅原文太ファンがいた中での、文太リスペクトオマージュに彩られた大河ドラマだったのではないかということが言いたいだけなのである。ひと月空けて言う程のことではないのは確かだ。
最後に蛇に101本目かの足を付け加えるならば、最終回、秩父事件の農民蜂起に平沼せんじも加担し、壮絶な戦いシーンが続いたあと、草原の中を平沼せんじが駆け抜けて行き、ナレーションがかぶり、「平沼せんじはそのまま消息を絶ち、聞くところによれば、その後各地で起こる人民蜂起にその姿を見たという」で終わるのが、非常に格好よかったことだけは記しておきたい。何かゲバラの姿が重なったりしないか。私の全大河ドラマベストワンの話である。
双璧をなすものとして、「黄金の日々」における石川五右衛門とその部下による、豊臣秀吉暗殺計画特攻大阪城なぐりこみ作戦、もあげられる。これは、ならず者部隊による秘密基地攻撃ものジャンルに入れてもいいのではないか。「黄金の日々」といえば、忘れられないのが、川谷卓三演じる鉄砲の名手、杉谷ぜんじゅ坊である。杉谷は織田信長射殺を試みた。石川、杉谷共にドラマの主人公ルソン助ざえもんの友だちであったりし、テロリストの友人を二人も持つルソン助ざえもんもどうしたものであろう。「黄金の日々」については、あらためて「川谷托三伝説大河ドラマ偏」で触れることにする。あまりバカな話ばかり続くのも何であるから、「幕末」ということでちょっといい話をして、終わることにしよう。

「幕末」といえば、最近は新選組がヤングの間でブームであるそうだが、そこに携帯メールでつながる仲間うちとそれ以外とを明確に分ける気質が関係しているのではないかと思ったりする。仲間うち間での閉鎖性とそれ以外への排他性。近藤、土方、沖田だけが存在しているのでなく、たくさんの名もない隊士が、虫けらのように殺されてきた組織であることは眼中にないのだろう。自分たちがその小さな集まりの中で、近藤であり、土方なのだから。もっとも名もない隊士と見なされるものも出てきたりし、それが新聞を賑わすニュースに繋がっていくような気がする。
それとも、日本でアイデンティティーが危うくなる時、すぐサムライが出て来る、安易さからのものだろうか。私はこの図式に疑問を感じる。
ここで日本人=サムライという図式がウソであることを証明してみよう。まず日本人の半分は生物学的にサムライになることはない。これで半数は割れた。そしてサムライは身分制度のピラミッドの一番上に位置し、牛のクソにも段々があるように、上へ行く程、その段の大きさは小さくなる。つまり、日本人でサムライであった人とそうでない人では、圧倒的にそうでない人が多いのだから、日本人=サムライなんて嘘っぱちであることは明確である。フェミニストのババアは何故、文句を言わないのだろう。そもそも民族などが語られる時、そのアイデンティティーは、いつも男に属するものばかりで、半分は違うのだから、こんなものに意味はない。
誰もが言いそうな、日本人=サムライというものは、例えばルパン三世の中で、五右衛門が、ちょっと窮地に陥ると、すぐ、「武士道とは死ぬことと見つけたり」を連発するのと同じところから出ていることであろう。
つまり、脚本家が、五右衛門がサムライだということで、『武士道』をパラパラとめくって適当に書いたのが、ありありなのに通じる底の浅さというところではないか。

「どこがちょっといい話やねん!」と自ら突っ込みを入れ、「幕末」は終わる。
日本の夜明けは近いぜよ。

2004 7月3日更新
雑兵は不定期更新です。
ご感想、ご意見などありましたら、
info@aficionrecord.comまでお願いします。